俺は一貫して、より大きな自由のために強くなり続けることを大事に生きている。
まず強さとは何か。俺が大事にしている強さの定義はこれだ。
殺傷するも自由
愛でるも自由
受け入れようが拒否しようが無関係
条件に左右されぬ力
自らの意思を希望む通りに実現させる力
それが…”強さ”の最小単位!!!
「耐えることもまた───強さの一つ」
「”自己に克つ力“───これもまた強さ」
見失うな!!!
それ等 戯言 一切耳を貸す必要なし!!!
それ等の”解説”は全て”意思”を通せぬ者達の”必要事項”
言わばそれは弱者の詭弁!
“強さ”それ自体は善でもない。悪でもない。
強きものは耐えぬッッ!
そもそも耐える必要がない
“自己に克つ” その必要すらないッッ
それ等の”言い訳”は強さの純度を曇らせる排除すべき不純物!!!
範馬刃牙 新装版p245-251
もちろん俺たちは範馬勇次郎ではないので耐えるべきときもあるのだが、それは単に俺たちが地上最強ではないというだけの話である。強さの定義には何ら影響を及ぼさない。また作中では武力という文脈で語られていることではあるが、それは単にこの作品が武力に注目しているからにすぎない。ここで語られている強さは広く俺たちの世界に適用できる、実用的な定義である。
強さの定義や考え方について、本当に世の中はノイズばかりだ。戦いは同じレベルでしか発生しないだとか、やり返したら相手と同じ程度に落ちるとか、過去の自分に勝つことが大事だとか、強者は弱者を守るものだとか、ごまかしのオンパレード。役に立たず面白くもない思想の群れ。強さという直接的に測れないものを測ろうとして無意味で無用な妄想に取り込まれていく人々。
個人の強さは結果から測る。「あなたの望みは叶いましたか?」問いはただこれ一つ。
大事なのは、まず己の真の望みを明らかにすること。次に望みを叶えるために必要な強さを得ること。そして得た強さを惜しみなく躊躇なく容赦なく振るい、望みを叶えること。
もちろん望みに対して強さが足りないこともある。いや足りないことの方が多いまである。強さが足りないとき、有象無象はすぐごまかしを使う。強さが足りないから望みが叶わないという事実から目を背けて、「最初から望んでいなかった」だとか、あれこれ理由をつけて「それを望む人は変だ、おかしい、悪だ」などという。そうして望みが叶う権利を死ぬまで自ら放棄する。放棄したことにも気づいていない。
己をごまかすな。ごまかされるな。目を背けるな。いま強さが足りないから望みが叶わないという事実を直視しろ。目を背けた数だけ思想が濁り直観は衰え機会を逃す。得たいものがあるなら精神が保つギリギリまで望みを直視しろ。
望みを直視して生きてるとマジにヤバいときもある。そういうときは望みや強さをごまかし捻じ曲げるのではなく、ただ横に置いておく。立ち止まって休む。望みや強さをごまかす思想は、道を誤ることだ。間違った道に進んでしまうと復帰がとても難しい。誰だっていま進んでいる道が間違っているなんて思いたくない。進み続けてしまう。立ち止まるだけなら問題はない。一度休んで体力が戻ったら、また行くべき道を進む。単純にお前の望みを叶えるために強くなる道だ。
人々はあらゆる望みを捨てないお前を我儘だという。しかし我儘は通してしまえば単なる成果に成り下がる。そして人々は成果を出す人が大好きだ。つまり人々は我儘が嫌いなのではなく、弱さが嫌いなのである。惑わされるな。お前が全ての我儘を叶えたとき、お前は称賛され、自他共に認める強者となっている。強者を目指せ。
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